
「AIで翻訳者はいなくなるのか」。
この問いは数年前から繰り返されてきましたが、2026年になって見るべき数字は、将来予測よりも現在の事業構造です。
東京商工リサーチが2026年9月21日に公表した分析では、5期連続で業績比較が可能な翻訳業100社について、2025年度の売上高合計は392億5,700万円、最終利益は9億200万円でした。
ピークだった2022年度と比べると、売上高は9.7%減、最終利益は70.7%減です。2023年度から2025年度まで3期連続で減収減益となりました。
数字だけを見ると「AIが翻訳会社を壊した」と結論づけたくなります。しかし、そこまで単純ではありません。
経済産業省の過去の市場分析でも、翻訳市場の縮小要因として機械翻訳の本格化だけでなく、コロナ禍による需要減、価格引き下げ圧力など複数要因が挙げられていました。
生成AIの普及はその流れを加速させた可能性がありますが、売上・利益の低下すべてをAIの因果とみなすのは乱暴です。
一方で、翻訳工程そのものが変わっていることは明確です。
人が最初から最後まで文章を訳す案件の一部は、機械翻訳や生成AIが下訳を作り、人が誤り、表現、用語、文脈を整える形へ移っています。
この記事では、業界データと国際規格を手掛かりに、どの仕事が減り、どこに人の価値が残るのかを整理します。
東京商工リサーチの対象は「5期連続で業績比較が可能な翻訳業100社」です。
日本の翻訳業界全体を完全に網羅した統計ではない点には注意が必要ですが、同じ企業群を継続比較しているため、収益の方向を見る材料としては有用です。
2025年度は100社のうち50社が減収、32社が増収、18社が横ばいでした。利益も47社が減益、35社が増益、18社が横ばいです。
倒産は2026年1〜8月で3件が確認され、2025年の休廃業・解散は50件と高い水準が続いています。
東京商工リサーチは、簡易な文章を無料または低コストで機械翻訳できるようになり、複雑な長文にも対応範囲が広がったことで価格競争が激化したと分析しています。
同社が紹介した2026年の倒産事例では、関係者が「従来から業況が思わしくなかったが、AI翻訳の台頭がとどめを刺した」と説明しています。
ここで区別したいのは、「AIの普及と業績悪化が同時に進んでいる」という観察と、「AIだけが業績悪化を引き起こした」という因果です。
後者を証明するには、需要量、単価、人件費、分野別構成、顧客の内製化、景気などを切り分ける必要があります。
翻訳会社の売上に大きく効くのは、単純な「仕事量」だけではありません。
1文字・1ワードあたりの単価、納期、作業人数、再修正の回数が利益を左右します。
機械翻訳や生成AIが下訳を短時間で作れるようになると、発注者は「ゼロから訳す作業」に以前と同じ価格を払いにくくなります。
その結果、定型文、社内資料、EC商品説明、一般的なメールなど、意味が大きく崩れにくい文章ほど低価格化しやすくなります。
一方で、AIを使えば必ず利益が増えるわけでもありません。
出力品質が不安定な案件では、誤訳の発見、固有名詞の確認、数字・単位の照合、用語統一、文体調整に時間がかかります。
短納期化によってチェック工程が圧縮されれば、品質事故のリスクも上がります。
つまり、価値の中心が「訳文を作る量」から「誤りを見抜き、用途に合わせて仕上げる能力」へ移っています。
以下は、翻訳工程の変化を整理した比較表です。
AI時代の翻訳で増える役割の一つがポストエディットです。これは、機械翻訳など非人間の翻訳システムが出した文章を、人が目的に応じて修正する作業です。
ISO 18587:2017は、機械翻訳出力のフル・ポストエディット工程と、ポストエディターに求められる能力を定めています。
2026年時点では、非人間翻訳全般を対象にした第2版のISO/DIS 18587が審議中で、生成AIを含む環境への広がりを意識した改訂が進んでいます。
ポストエディットは「AIが訳した文章を読みやすく直すだけ」と思われがちですが、実際には原文と訳文を照合し、訳抜け、意味の追加、誤った因果関係、用語の揺れ、数値の不一致を見つける必要があります。
モデルは流暢な誤訳を作ることがあるため、文章が自然であるほど見落としやすい問題もあります。
このため、作業速度だけを評価すると危険です。品質基準、対象分野、許容できる誤り、公開範囲を先に決めることが重要です。
AIの影響を受けやすいのは、文章構造が定型化され、背景知識が少なくても意味が通り、誤訳しても損失が小さい領域です。
社内の参考資料、定型メール、商品情報の一次翻訳、短い案内文などは、自動化の比率が上がりやすいでしょう。
反対に、人の確認価値が高いのは、誤訳コストが大きい文章です。
契約書、特許、医療情報、安全手順、金融開示、規制対応文書では、一語の違いが権利義務や安全性に影響します。
ここでは自然な日本語だけでなく、「何を根拠にこの訳語を選んだのか」を説明できることが求められます。
また、マーケティングやゲーム、広告のように、直訳では価値が出ない仕事も残ります。
ブランドの人格、笑い、文化的背景、感情の強さを保ちながら表現を作り直す作業は、翻訳よりローカライゼーションやトランスクリエーションに近くなります。
人が残りやすい仕事の共通点は、文章の難しさそのものより「判断責任があること」です。
第一は専門分野です。
法律、医療、IT、製造、金融など、用語の意味だけでなく業務の流れまで理解できる人は、AI出力の誤りを見つけやすくなります。
第二は検証力です。
原文との照合、固有名詞、数字、引用、単位、時制、否定表現を確認し、流暢さに惑わされない能力が重要です。
第三はAI運用力です。
プロンプトの工夫だけでなく、用語集、翻訳メモリ、スタイルガイド、参照資料をどう組み合わせるか、どの工程を自動化し、どこを人が止めるかを設計する能力です。
第四は編集力です。
読者、媒体、目的に合わせて情報の順序や文章を組み替えられる人は、単純な翻訳単価とは別の価値を作れます。
第五は情報管理です。
顧客の未公開資料、個人情報、契約情報を外部AIへ入力してよいかを判断し、利用規約や社内ルールに従えることは、今後さらに重要になります。
企業側も「AIに入れれば翻訳費がゼロになる」と考えると、別のコストを見落とします。
品質事故が起きた際の修正、顧客対応、契約リスク、ブランド毀損まで含めて考える必要があります。
実務では、まず文書をリスク別に分けるのが有効です。
社内閲覧だけの低リスク文書はAI中心、外部公開文書は人のレビュー必須、契約・医療・安全関連は専門家承認を必須にする、といった運用です。
さらに、使用したモデル、用語集、プロンプト、レビュー担当者、承認日を記録しておけば、問題が起きたときに工程を追跡できます。
AI活用の成否はモデル精度だけではなく、チェック体制で決まります。
翻訳業界では、売上と利益の悪化という厳しい数字が出ています。
東京商工リサーチの100社分析では、2022年度から2025年度にかけて売上高は9.7%減、最終利益は70.7%減りました。
AI翻訳の進歩と価格競争は無視できない要因です。
ただし、翻訳という仕事が一括して消えると見るより、工程ごとの価値が変わっていると捉える方が実態に近いでしょう。
初稿生成は自動化しやすくなり、その分、検証、専門判断、編集、品質保証の比重が上がります。
翻訳者にとっての判断軸は「AIを使うか使わないか」ではありません。
AIが得意な工程を任せたうえで、自分がどの責任を引き受けられるかです。
発注側も、安さだけでなく、誤訳したときの損失に合わせて人のチェックを残す必要があります。

